読むことを生きる

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photographer:Yuki Nishida

「月白にて」第二夜から一週間後の月白にて、陽も長くなって少しく明るい夕方に居合わせたあるお客さんと、砂糖をつかわない甘味について話すなかで干し柿へと話題の至ったとき、彼女にとって、柿のなる木立や柿のかたちが、果物のなかでは最も癒しだというのを聞いた。言われてみればそうかもしれない、と月白にあった高島野十郎の画集から写真のような柿の絵と、これも月白に預けている植田正治の写真集から絵のような柿の写真とを見くらべて、たしかにそうだ、とあらためて柿に惹きつけられた。柿が日本古来の果物であるからは、それは至って自然な感覚なのかもしれない。

そういえば、私のポーチ、柿渋染めでした。と思い出したように彼女の見せてくれたポーチがとてもよかった。それを月白に偶然あった敷板——木の板に柿渋染めした和紙を包んで仕上げた敷板——に載せて見つめる、色味の差異とその彩に、僕は一気に柿渋染めがしたくなった。僕はペンケースをずっと欲しかったのだが、気にいる物が見つからずにそのまま忘れていたのを、自分で柿渋染めした布でつくりたいと思ったら急にまたペンケースが欲しくなった。ひさしく失せていた物欲が途端にみなぎるのをかんじた。創造欲は物欲の恢復であるとさとった。

このようにして、第二夜で語った「器用な人間」というエッセイ集の構想、その物語は次々と展開していくのだという確信が芽生えたとき、これも第二夜で触れた小説「パパ・ユーアクレイジー」の次の一節がよぎった。

「この物語の一番素晴らしいところは話の筋ではなかった。素晴らしいのは、物語の進行につれて、実際にさまざまなできごとが同時に起こってくることだった。そんなやり方でなら、僕は書いてもいいなと思う。」

こうして本を読んでいると、僕はパパを何回も読んでいるからなおさらに、自分の身の回りに起こる出来事が物語とともに展開していくのを感じる。そうして時折、生きる中で本を読むのか、読むことによって生きているのか、いまいち判然としない瞬間がある。それが読書の醍醐味だと思う。人生の、とも言えるかもしれない——読書は生きることそのものではないか?

彼女が帰った後、最近いろんなものが繋がってきておもしろい、と月さんがつぶやいた。特に第二夜で言及したパパの次のような一節と、そこからの展開に、これまでバラバラになっていたものが結び付くのを感じたのだという。

「アートがなかったとしたら、われわれはとっくの昔に地球の表面から消滅していたろうね」

「アートとはそれなのさ。ありふれた物を、それらが今まで一度も見られたことがなかったかのごとく見つめるということなのさ。」

その繋がりを確かめようとしてか、さらにもっと手繰るためでもあったのか、月さんのノートにはこれら一連の流れが筆写されていた。それを見て、白紙だった今月末の「月白にて」第三夜のテーマが浮上した。つまり「読むことを生きている状態」と、他ならぬ「パパ・ユーアクレイジー」の翻訳者である伊丹十三がそのあとがきに記した状態、そのような読書の—— あるいは人間の—— 在りようについて。

古傷の疼く(二)

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「前に話していたのはたしか、火の仕業?」

窯からギャラリーに戻って打ち合わせのはじめに、今展示のタイトルについて杜胡さんが郷原さんにそう確かめたとき、それはとても良いタイトルだと思った。火がうつわをうつわたらしめる仕業について、窯の構造の実際から具体的に聞いていたこととかさねて、郷原さんのうつわにかんじられる作家性が稀薄に思えたのは、土がうつわに成る過程の多くを火の神様に託す意思が、彼には人一倍あったからではないかと腑に落ちたから。

「ああ、火の洗礼。」

郷原さんの応えたとき、しかし僕は、あまりピンとこなかった。洗礼よりも仕業という手ざわりのある言葉のほうが、彼のつくるうつわには合っている気がした。

帰りの車中で、郷原さんのうつわをどのように届けたらよいかという話をしていたときにも、僕にはその違和感が拭えずにいた。「僕には自分が無いんです。」と話のなかで郷原さんは繰り返し言った。それは彼の永い修行時代——といってもそれは鞄持ちのようなもので、うつわを実際につくらせてはもらえなかった——において、"作らない"作家の影武者のようなこと、"自分を消して"物をつくることを永くやってきた末に身についた個性——無私性であるらしかった。そこへみて洗礼という言葉には、作家性が忽然にきわだってかんじられたのかもしれない。

「なんでもそれなりに作れる。自分が無いんです。けれど売れるのは、作家の個性が強いものだから。僕は究極、土を触っていられたらいい。」

思えば僕としても、作家物のうつわを買った経験は少ないが、なおさらそれは特別な購買体験として、うつわには個性を求める節があったかもしれない。Instagramでうつわを見るのが習い性となっているのも、個性の光るものばかりを見ているのであった。だから、といえばいいのか、僕は郷原さんのうつわの一つ一つに直接惹きつけられるよりも、彼のなんでも自分で作ってしまう在りようや、そうして生み出された空間全体の方にこそ惹きつけられたのかもしれない。むしろ、どのようにしてうつわそれ自体を見ればよいのか、僕の経験の浅さゆえか、陶房においてそれは不可能に思えた。

しかし、そのように自分から買うことをしなかったうつわが思いがけず、本を介して自分の手元に届くことになった。これは果たして、何が届いたことになるのか。うつわが、単にそれだけが届いたとはどうも思えなかった。陶房を離れた車中で、どのような展示をすればよいかと三人で話しあうなかであらためてうつわを見ながら、その奥に広がる陶房の光景や、郷原さんの在りようを見ずにはおれなかった。否、むしろ郷原さんのうつわの、これは特質なのかもしれない。彼の無私性による、うつわの孕む、余白……

そのとき、うつわを見ていた僕に、陶房へ辿り着くまでのことが思い出された。昼を過ぎてからでないと郷原さんの都合がつかないから、その前に小波——元は杜胡のあった近所のうどん屋で、昨年宗像に移転された——へ行こう、移転のお祝いにお酒も買って行こう、と寄った許山酒販には入り口が二つあり、一方は昔ながらの雰囲気を残した角打ちで、もう一方は現在の洗練された空気の流れる実に良い酒屋だった。そこでワインを選んでいると、「ワインや焼酎は、香りを楽しむ点で限りなくアロマテラピーに近いんです。特に最近は焼酎がおもしろい。」と店主の許山さんが言った。僕として馴染みの薄いワインと焼酎を、それぞれの香りからアロマテラピーに繋げて語るあざやかさに惹きつけられ、そういえば、ワインセラーの手前にあった洒落た瓶、あれも焼酎ですか?と聞くと、「そうです。よかったら隣で試飲しますか?」と朝から思いがけず、角打ちで焼酎をいただくことになった。

それは鹿児島にある白石酒造の「スズホックリ」という名—— 芋の一種で、酒造りの好きすぎるあまりに、芋から自分たちの手で作られていることからそう名付けられた——の芋焼酎で、ソーダ割りすると香りからおいしいとグラスに氷を掻き回して角を取り——これをすると、氷が溶けづらくなるのだという——スズホックリを注ぐ、冬の朝とは思えない氷のカラカラと鳴る音が心地よく、舌鼓を打つうらでは次々と別の焼酎が、ソーダで割られお湯で割られして、そのつどまずは香りをたのしんでから飲むことをした。これからが本番というのに朝から酒を飲んでいる背徳感がさらに酒をうまくするのか、しかし曇る酒ではない、むしろ冴える酒もあったものだとあじわいながら、次々と展開される許山さんの話を深々と聞いていた。

お酒はどうやって勉強されたんですか?と聞くと、「勉強自体は最近なんですが、元々絵が好きで、とくに僕はセザンヌが好きなんです。セザンヌの塗り残しってご存知ですか?」月さんが嬉しそうに頷くも、僕は知らなかった。それはなるべく現実に近付くことを主眼としていた絵画が、写真の登場を機に大きく揺らがされ、むしろ絵画にしかできない表現を目ざす方へと展開していく美術史において、先駆するように描かれたセザンヌの意図的な塗り残しであるらしかった。「それと酒を売ることは近いんです。僕らは生産者ではないので、その酒のすべてを伝えることはできないんですが、だからこそ、どの部分で伝えるかというところを常に意識しています。それはどんな仕事でも、そうなのかもしれませんが……」

その話に酔って、僕は福岡へ越してきてから間も無くしてあらためて見開かれる思いをした写真家・鬼海弘雄——月さんの最も敬愛する写真家で、月白には彼の写真集がいくつも飾られている——がとあるラジオで話していたことをふっと思い出したのだが、それは次のようなことだった。

「モノクロでないと写真じゃないですよ、カラーは情報ですよ、だって、モノクロだと、こっちからこれを見てくださいというのでなく、見てくれるひとが、隙間があるからそこに入って、自分とどこか似ている、という感じで読んでくれる。でないと写真はただの情報で、一回で見切られて終わりですよ。」

帰りの車中、どのように郷原さんのうつわを届けたらよいかと三人で話し合いながら、僕に届いたうつわにかんじた余白は、それがセザンヌほどに明らかな意図があったとも思えないが、なおも鬼海弘雄がこの時代にあえてカラーではなくモノクロを選んだようにして、郷原さんは土を——釉薬もかけないで、ただ土だけを使うということを——選んだところに生じたうつわの隙間だったのではないか。そうして、僕がそこに入って見たものは、さっきまで居たあの陶房の光景、それから郷原さんの在りよう—— それだけでなく、その奥に息づく人間の生きる姿、器用な人間—— それは私かもしれなかった。

しかしそれは、"自分とどこか似ている"のでもなかった。むしろ今の自分は、あまりにも不器用な人間である。にもかかわらず何かが疼く。否むしろ、不器用だからこそ疼くのかもしれない。このままではおれないと、人間として生まれてきたのにこの様は何だと。ならばそれは、自分にも覚えのない古傷——自分の生まれない前から続いてきた、人間として生まれてきた傷——の疼きなのかもしれない。それが日常生きるなかではひっそりとこの身に鎮んでいるのだが、何かの拍子に疼くときがある。たとえばこんな満月の日にはことさらかもしれない——町でも眩しいくらいの大きい月が、その日の夜空にはかかっていた——それを車窓に眺めて感嘆していると、「だから今日にしたんよ。」と運転席から杜胡さんが言った。「そういう験は担ぐようにしてるから。」

月白の近くに着いて車を降り、三人であらためて見あげた月は物凄かった。月を見るとき、人はみんな同じ目をしていた。打ち上げに月さん家で鍋をすることになって、そこまでの道すがら、月の光に照らされながら、御調の山あいに暮らした日々のなかでこのような月のいい日にだけ見られる月影を思い出していた。町に戻ってきた安堵のうらで、それは古傷の疼くように思い出された。

古傷の疼く(一)

f:id:odolishi:20200112110526j:imagephotographer:Kuniaki Hiratsuka

山道のはじまりのうねりに沿って、茶色いかたまりがいくつもうちつらなっている。不法投棄されたようなそれらは、よく見れば木々——家の解体作業で出てきたいくつもの梁や板——で、なかには江戸時代の立派な梁も埋もれているらしく、これとか、ほら、と促されてみれば「三寸云々…」と書かれた文字が煤けてみえた。数百年という年月を経て今ここにあるという不思議。見た目にその永い時間の経過を感じられたわけではなかったが、いまは使われない単位の書きつけてあることが、その時代を証している、磨けばいまに生き生きと蘇る上等の梁らしい。そのような材という材が、この陶房ゴウハラ——三月の末に月白で展示をひかえている郷原さんの陶房——には集まってくるらしく、そこへ月さん杜胡さんが打ち合わせへ行くというので、僕も連れてってもらった。

そのような材山の端から、門をくぐって階段を下る途中に見えるのが陶房、さらに下った先にはギャラリーを併設した住居、その裏手に窯があった。驚くべきは、そのどれもが郷原さんの手による建築だということだ。住居は近くにあったのを解体移築してきただけだから別に大したことはない、というからさらに驚いた。中へ入ると、外観よりも広く思える空間の向こうの、大きい窓からは折柄の木漏れ日が差し込んで、大きい机に並べられたいくつものうつわが光っていた。「やっぱり、ここで見ると印象が変わりますね。」と口々に言い合いながら、二人の興奮気味にうつわを見つめる間も、僕はといえば、しばらくその空間全体により惹きつけられ、そこに浸り込んでいた。

ギャラリーの隣に併設された庵—— ここがまた素晴らしく、子どもの頃に秘密基地を作ったのは、本当はこういう空間を作りたかったのだと思い知るような庵—— から外へ出ると、窯がある。山の斜面を這うような、綺麗な竜のような窯の上には、お椀が二つ置かれていた。火入れの時、ここに日本酒と塩を盛り、火の神様を祀るのだそうだ。「神様がいるからね。」と、その姿を思い出す目をして郷原さんがつぶやく。それは見てみたいと思ったが、郷原さんは火入れに掛かる二週間はほとんど寝ずの番だそうで、一週間もしだすと幻覚をよく見るというからは、そうでもしないと見えない神様なのかもしれない。

ギャラリーに戻って、郷原さんのうつわでお茶を頂きつつ、三人が打ち合わせするのを聞いていた。今回は杜胡さん監修の展示のようで、彼の持つ展示の全体像から、ふつふつと浮かんでくるうつわのイメージを、郷原さんのそれと擦りあわせ、作業工程の実際などを確認しあっては、また全体像へと還元してゆく様子は新鮮だった。展示の打ち合わせといえば、作家がまずは物を作り、それらをどのようにして展示空間に落とし込むかという作業を思っていたから。またそこにおいて、作家はある種の王様であるとさえ思っていた僕として、杜胡さんや月さんの話すイメージにしんしんと聞き入り、時間の制約からできないことのほかは、なんでも受け入れるかに見えた郷原さんの在りようは思いがけなかった。

その打ち合わせのなかでも、とりわけ三人の注目の一致した的が、まだ焼かれる前の土感がひときわ生しい質感の、形は原始のボウルのようなうつわと、その素になった原土のかたまりだった。これから何にでもなれそうな原土と、まだいくらでも手をかけられそうなボウルのごろっところがしてある様には、整然と並べられてある他の完成形とはまた別様の蠱惑があった。

打ち合わせもひと段落して、展示のフライヤー用に、月さんはうつわの写真を撮りはじめた。僕もやっと仔細にうつわを見る目になって、一つ一つ眺めていると、「本を作ってるんだってね」と郷原さんから声を掛けられた。はい。と受けて、そうして微花を見てもらった。本を目の前で見てもらう時間には、いつでも独特の緊張がある。僕はそこから逃げるようにして、うつわを見ていた。「綺麗ですよね。」と杜胡さんが話し掛けるのを遠くに聞きながら、僕はこのたくさんのうつわ——お皿、お椀、花入れ、オブジェの数々に、またそれを作った郷原さんに、何といってよいのか、わからないでいた。

「ありがとう、良い写真だね。」

そこで別に包んできた微花を渡すと驚いた様子で、隣の部屋を綺麗にしたらそこに飾るつもりだと受けてから、「よかったら、その棚にあるのから好きなの持ってっていいよ。」と言ってもらって、今度はこちらが驚いてしまった。互いに作ったものを交換すること。そこにはお金を払ってもらうのとは全く違う緊張がある。二十いくつもあったろうか、主にお椀やカップの並んだ棚に向かって、さて、自分は何を飲みたいか、何を飲んでいるのかと問いながら、見た目からして珍しい、飲み口から底へと末広がりになったカップが気になって、窓からの光に晒して見ていると、「それかい?」と聞かれて、これだと思った。僕は朝食を済ませてからいつも、仕事に出掛けるまで珈琲を飲んで過ごすのだが、その至福をこのカップと共にしようと思った。

諸々を終えてから、最後に残っていた肝心の陶房を、汚くて狭いからといって見せるのを渋る様子の郷原さんだったが、最後は僕らの期待に根負けしたように見せてくれた。中に入ると、狭いというよりは、緊密なコックピットのような空間に、様々な道具や、ろくろや、いくつもの原土、昔のうつわの資料集などが濃密におさまっていた。猫のマキ——薪の所にいたからそう名づけられた——もいた。窓からの光が、道具や棚に濾されてひとすじに、床にあった土をそこだけ眩しく照らしていたのを手にとって、「さっき話してた、これが120万年前の土だよ。」と郷原さんは言った。薄暗い陶房——マキが鳴き止んで、物音一つ無い静かな陶房——で、120万年前の土をじっと眺めている今、がいつなのかわからなくなる。(そのすぐ向こうには江戸時代の梁が横たわっていたのだ。)

帰りがけに「この階段も作ったんでしょう?」と杜胡さんが聞いた。その労苦を思い出すような表情で、さっき僕らの何気なく降りてきた石の階段について郷原さんの語ったところによれば、それは昔、この近くにあった銭湯の洗い場の床石だったそうで、処分するには多額の費用がかかってしまうのをきらったそこのオーナーか労働者が、貰い手を探すもなかなか見つからない末にここにやってきたのを郷原さんが階段に仕上げたもので、しばらく経ってからそれを見たいつかの彼は、「毎日毎日、磨いた床だったんです。それがこうして階段になって…」と泣いてお礼を言ったそうだ。僕も泣きそうになった。それはいつかの彼への共感とかさねて、郷原さんという人間——なんでも自分で作る器用な人間であるよりほかに、どうしようもなかった不器用な人間——その在りように走った疼痛だった。

器用な人間

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元旦の翌日に月白へ行った。先月末にはじまった話す連載「月白にて」に来てくださったギャラリーのオーナーさんが見えているというので、仕事帰りに寄ったのだが、彼女はタッチの差で帰ってしまったという。和紅茶を注文して待っていたら、そのとき居合わせた方から" 先日の「月白にて」はどうだったんですか?" と尋ねられた。説明するのは難しいというと、月さんもそういって匙を投げたらしかった。無理もない、話しがおもしろいというときに念頭にあるのは、その筋ではなく、実際に話した言葉が次の言葉を呼びこむ流れにこそある。その感触が良かったと伝えた。

" そうそう、金継ぎに出してたうつわが届いて。"

昨年の十一月に日田を訪れたとき、鹿鳴庵の主人テツさんが相澤漆藝工房で金継ぎを習う様子を見学させてもらった。うつわはテツさんに預けていた月白の三つのお椀で、見学したときにはまだ乾かない漆の生しい赤いろをしていたのが、息をのむ金色になって帰ってきたのだった。近く、遠く、回して見たり、金の手ざわりをたしかめた。これは使う人にとって良い緊張をもたらすだろうな、という力が漲っていた。一度は壊れてしまったものが、金継ぎによって直るというのは、元に戻るということではけっしてなく、姿が変われば自ずから、物と人間との関わりようも変わるのではないか。

ちょうど、僕は物を使う人間について考えていたところだった。そうして、手紙を書くことが自分にとってある種のリハビリなのではないかと思いあたったことから、Wikipediaにあったリハビリについての文章の一部を前回の「回復する人間」に引用したのだが、その続きにさらに惹かれていたことを、うつわに触発されるようにして思い出したのだった。

『また、猿人と原人の中間に位置するホモ・ハビリス(homo habilis、「器用なヒト」)が、道具を使い、人間にふさわしいという意味でも用いられ、適応、有能、役立つ、生きるなどの意味も含有し、リハビリテーションの語源ともいわれている。』

現生人類へと繋がることなく絶滅したとされるものの、高度な石器製造技術を持っていたことからラテン語で「器用な人」と名づけられたホモ・ハビリスが、リハビリの語源にあるのだという。物を作り、物を使い、物を直して使い続けることによって生きてきた人間の在りよう、としての器用な人間。 

と、ここまで話が及んだとき、" これを思い出しました" と居合わせた方から、一冊の本を見せてもらった。「ありのままがあるところ」鹿児島の、知的障害や精神障害を抱えた人々の暮らす福祉施設・しょうぶ学園についての本だった。それは障害も病気も健常も超えたところにある健康について考えていた僕にとって、まさに今読むべき本に感じられた。目次をひらいて、" できないことができるようになるとは?"とまず飛び込んできた。これはまさにリハビリのことではないか?続いて、" 目標は普通の暮らし" " 縫うことは生きること" など、今の関心に訴えかけてくる言葉が並んでいた。彼女はジャケ買いをしたというが、僕としてはそのように本屋で手に取ることはきっとなかったであろう本が、今こうして「月白にて」の流れから手元にやってきた。それはとてもきもちのいい流れだった。

しかし、翌日さっそく読みはじめてみたのだが、どうも思っていたのとは違う内容であった。" できないことができるようになるとは?" という章で、施設の利用者が刺繍をまっすぐにできないことをできるようにするのは何のためになるのか、無理にまっすぐな刺繍をさせるより好きに刺繍してもらった方がいいのではないか、それこそがアートではないか、とこれまでの作業の在り方を問い直してから、健常者について次のように言う。

「まじめな健常者は普通、困難な課題を克服し、新しい技術を獲得し、能力が増していくことに喜びを覚える。つまり、できないことができるようになることが重要になる。そこまでして苦手なことを克服しようとするのはどうしてかというと、健常者には他人から評価されるようになるとか、そうしたことで充実感を得られる欲があるからだ。」

一方、施設の利用者には苦手を克服する理由が無いのだと続く、後者はそうなのかもしれない。だが、他人の評価による充実感云々という決めつけには反発を覚えずにいられなかった。それについては全く思いもよらなかった。立場の違いは当然あるものの、僕がこの本を手に取った経緯からはあまりにも外れた内容だった。否、自分こそが本から外れていたのだった。

どのように自分が外れていたのか。" できないことができるようになるとは?" という目次から僕が勝手に書きはじめていた別の本には、できないことはできなくていいという肯定とは別の肯定が書かれていた。金継ぎを例にとれば、物の直しなどできなくていいというのが、ここに書かれているできないことはできなくていいという在りようだとすれば、それはこれまでの僕の生活のまんま、そこで行き詰まって終わりである。そのような自分にとって、できないことができるようになることは、これまではやってこなかった本当はできるのにできないと思い込んでいたあらゆることや、別にしなくても生きられるからと他人の手や機械に預けられた日常生活動作の悉くを、しなくなったがゆえに死んでいるのと変わらないような死にたくなるような想定外が起きている悉くを、この手で取り戻していくというリハビリーhomo habils ーを生きることによって、底から回復する人間の姿をこそ肯定する営みなのだった。

できないことはできなくていい、それでも生きていていいという肯定は、彼の生きる張り合いや緊張を奪って骨抜きにしたうえで、なおそのような彼に、ゆっくりと自分のペースで歩けばいいのだという、かえって酷な肯定に今は思える。(彼は僕である、これは自分の話である。)そのような自分にとって器用な人間とは、本来は張り合いのある生を、張り合いのあるままに生きようとする人間のことで、何も手先が器用だとか世渡り上手とかいうことではない。むしろそのような意味でなら、僕はいかにも不器用である。そういうことではなく、お前は何がしたいのか?と何度も問われてきた、その度に、ただ生きたいのだと不器用に応えるほかは何もなかった、その内実は人間の生の必然的な雑多性をそのままに、自らの身体を以って経験し生きてきた、何者でもない普通の人間 ー 器用な人間として、ただ生きたいということだった。

homo habils. すでに絶滅したとされている人間。しかし耳を澄ませば、自分の身体にも、今は静かに息をしている器用な人間の、再起するリハビリとしての手仕事の数々を、生活のなかで少しずつ取り戻していくこと。それはまた僕にとって、文学と同様、健康の一つの企てともいえるだろう。

 

回復する人間

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元旦はいつも晴れる不思議に恵まれて、朝から四時間の散歩をしてきた。なるべく正月の空気にあてられないようさびしい道をばかりとおってゆくと時空のそこだけぽっかりとあいたような境に踏み入ることが何度かあった。正月はなにかと狂うのか、と風邪っぴきのからだをあやすように、いつものように植物の写真を撮って帰った。

ここ最近とくに思うことに、写真が撮れたと感じたときに都度、何かを取り戻したような感触を覚える。それが何を取り戻した感触なのか、その前に失われているものは何なのかもわからない。けれど写真には、確かにそれを感じる。

帰ってから晩のお雑煮用にあらかじめ水につけておいた干し椎茸の状態を確認し、少し横になってから、あたらしくはじめた手紙を書くという日課の合間にこれを書いている。手紙を日課にしようときめたのは、生活における手仕事を増やしたいと思ったからだった。なんでもiPhoneで書いてしまう僕は、なんでもなさそうな手書きにむしろ難を感じる。馴れない手をあやすようにじりじりと書くのを終えると、全身に疲れと充足を感じる。これではまるでリハビリではないか—— 否、むしろ自分は、リハビリをこそしたかったのかもしれない。だとすればそれは、何を克服するためのリハビリなのか。そもそもリハビリとは何なのか。

リハビリテーション(rehabilitation)とは、身体的、精神的、社会的に最も適した生活水準の達成を可能とすることによって、各人が自らの人生を変革していくことを目指し、且つ時間を限定した過程である。リハビリテーションの語源はラテン語で、re(再び)+ habilis(適した)、すなわち「再び適した状態になること」「本来あるべき状態への回復」などの意味を持つ。』 — Wikipediaより

これを読むと、その実際はどうであれ、どうも病気や障害を前提としたうえで何かを克服するというリハビリ観は狭いように感じてしまう。ここに書かれている「再び適した状態」「本来あるべき状態」とは何なのか。再び、本来、ともに過去を指向する言葉だが、その過去は自分の生涯の範囲内とも限らないのではないか。とすれば、リハビリとは何かを思い出すことなのかもしれない。手紙を書くときに感じるあの充足は、このからだが何かを思い出したことの懐かしさなのではないか。何かを覚えているから、記憶に無くてもなお懐かしい感覚が訪れる。このからだは何を覚えているのか。からだは何を今思い出したがっているのか。

それはおそらく、特別なことでは決してなく、かつては誰もがそうしてきたようなことなのではないか。誰もが生きるために食べ物をつくり、料理をし、食べてきたこと。誰もが人と言葉を交わすために手紙を書いたこと。本来はそうだった、それがあろうことか、今となっては特別となっていることにこのからだは戸惑っているのではないか。生きるということがあまりにも約められているせいで凝り固まっているのではないか。馴れない手が、それでも手紙を書きたいと思うのは、より生きたいからではないか。

「且つ時間を限定した過程」とあるが、からだは常に揺らいでいるからは、適した状態もその時々でうつろうだろう。そこへ回復するというのは、一時的な過程よりはむしろ、生きているかぎり終わらない過程なのではないか。そうして、からだが目ざすのはある生活水準ではなく生活行為そのものであり、生活であるからは生きているかぎり終わらない。その過程における人間は、皆して回復する人間なのではないか。

「月白にて」

f:id:odolishi:20191230000924j:imagePhotographer:Kuniaki Hiratsuka

年の瀬、初回の「月白にて」終いました。お越しいただいた皆さん、月さん、本当にありがとうございました。ここで仔細に振り返ることはしませんが、これより先へと多岐にわたって続いていきそうな道程に、いくつもの糸口を付けたところで終って、これから生きて書いて語っていく全ての序文のようなものになったと思います。

「月白にて」は今後、話す連載として都度、録音を残すつもりで、今回初回のは少し寝かせてみてから、いつかこの写真を静止画としたYouTubeに忘れたころに挙げる予定です。

終って、月さん宅でお好み焼きとおビールを頂いてきました、ありがたきしあわせ。普段なら寝ている時間に話して飲んでしたので静かに興奮していましたが、着ていた洋服をブラッシングしたら鎮静しました。あらためて、気分は作業に宿ると思った次第です。

それではまた「月白にて」

他に仕方もない

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どうやら自分は、作業の中にいる時には鬱にならない。鬱になる時、それを感じる時、だいたい頭で何かを考えている。( 但し例外を除く) そのままどこまでも考えてしまうのだが、あまりいいことにはならない。それなら考えるのをやめたらいい、と考えるまでもない対処が、鬱の時にはなぜかできない。

だから鬱になる前に、あらかじめいくつもの作業を見つけておいて、思い立つより前に、自動的に入れるようにしておく、つまり日課としておけば、鬱になることはないという仮説のもとに暮らしはじめてひと月が経つ。そうして減った、あるいは来たとしても軽くなった。これは良い線なのだと思う。

これまでは気分の波が激しいのは自分の性格で、それはどうしようもないものだと思っていた。良い気分の時は本当に良く、下がる時はとことん下がる、他にどうしようもない、という仕方で生きてきた。けれど今は、気分に関わらず作業に入ることで、その気分になってゆくというのを覚えた。気分の波は作業の波なのかもしれない。

特に手作業が良い。それは単純で、感触があって、後退が無いからだ。先日、友人から届いたドゥルーズの『批評と臨床』にはこんなことが書いてあった。

「人はみずからの神経症を手立てにものを書くわけではない。神経症や精神病というのは、生の移行ではなく、プロセスが遮断され、妨げられ、塞がれてしまったときに人が陥る状態である。病いとはプロセスではなく、プロセスの停止なのだ。」

だからこそ、プロセスの停止( =鬱 )に、別のプロセス( =作業 )をあてがうことで、生の移行がまたはじまるということだろう。また別のプロセスは単純であるほうがよい。というのは、やればやるだけ進むようなプロセスが、さっきまでどうしようもなく停止していた思考のプロセスに新たな前進を促すということがよくあるからだ。現に今書いているこの文章も、一度詰まったので米を研ぎ、研ぐ間に前進したものを書き継いでいる。

「それゆえ、そのような存在としての作家は病人なのではなく、むしろ医者、自分自身と世界にとっての医者である。」

そのような医者として、単純作業を自分に処方し、鬱は解消され、言葉が生まれる。物が書けて、家事もはかどる。「文学とは一つの健康の企てである。」とは、僕にとってはそのような生活のことである。これは一生続けていきたいと思う。もとより物を書かなければこの身が続かず、家事をしなければ生活が回らないからは、他に仕方もないのだが、他に仕方もないことでこそ生きられるというのは、これはありがたい設定ではないか。

「人生ほど、生きる疲れを癒してくれるものはない。」ーウンベルト・サヴァ

 そのような詩的人生を、やっと見つけたのだと思う。ただ人生といってしまうとつい物語に目が眩んでしまう。そうではなく、これは良い一日の発見、そうして継続である。