読むことを生きる

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photographer:Yuki Nishida

「月白にて」第二夜から一週間後の月白にて、陽も長くなって少しく明るい夕方に居合わせたあるお客さんと、砂糖をつかわない甘味について話すなかで干し柿へと話題の至ったとき、彼女にとって、柿のなる木立や柿のかたちが、果物のなかでは最も癒しだというのを聞いた。言われてみればそうかもしれない、と月白にあった高島野十郎の画集から写真のような柿の絵と、これも月白に預けている植田正治の写真集から絵のような柿の写真とを見くらべて、たしかにそうだ、とあらためて柿に惹きつけられた。柿が日本古来の果物であるからは、それは至って自然な感覚なのかもしれない。

そういえば、私のポーチ、柿渋染めでした。と思い出したように彼女の見せてくれたポーチがとてもよかった。それを月白に偶然あった敷板——木の板に柿渋染めした和紙を包んで仕上げた敷板——に載せて見つめる、色味の差異とその彩に、僕は一気に柿渋染めがしたくなった。僕はペンケースをずっと欲しかったのだが、気にいる物が見つからずにそのまま忘れていたのを、自分で柿渋染めした布でつくりたいと思ったら急にまたペンケースが欲しくなった。ひさしく失せていた物欲が途端にみなぎるのをかんじた。創造欲は物欲の恢復であるとさとった。

このようにして、第二夜で語った「器用な人間」というエッセイ集の構想、その物語は次々と展開していくのだという確信が芽生えたとき、これも第二夜で触れた小説「パパ・ユーアクレイジー」の次の一節がよぎった。

「この物語の一番素晴らしいところは話の筋ではなかった。素晴らしいのは、物語の進行につれて、実際にさまざまなできごとが同時に起こってくることだった。そんなやり方でなら、僕は書いてもいいなと思う。」

こうして本を読んでいると、僕はパパを何回も読んでいるからなおさらに、自分の身の回りに起こる出来事が物語とともに展開していくのを感じる。そうして時折、生きる中で本を読むのか、読むことによって生きているのか、いまいち判然としない瞬間がある。それが読書の醍醐味だと思う。人生の、とも言えるかもしれない——読書は生きることそのものではないか?

彼女が帰った後、最近いろんなものが繋がってきておもしろい、と月さんがつぶやいた。特に第二夜で言及したパパの次のような一節と、そこからの展開に、これまでバラバラになっていたものが結び付くのを感じたのだという。

「アートがなかったとしたら、われわれはとっくの昔に地球の表面から消滅していたろうね」

「アートとはそれなのさ。ありふれた物を、それらが今まで一度も見られたことがなかったかのごとく見つめるということなのさ。」

その繋がりを確かめようとしてか、さらにもっと手繰るためでもあったのか、月さんのノートにはこれら一連の流れが筆写されていた。それを見て、白紙だった今月末の「月白にて」第三夜のテーマが浮上した。つまり「読むことを生きている状態」と、他ならぬ「パパ・ユーアクレイジー」の翻訳者である伊丹十三がそのあとがきに記した状態、そのような読書の—— あるいは人間の—— 在りようについて。