とんど

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 「花屋であるところに火を見ることは稀だろう。どころか火気なら厳禁だろう。ところが、人と花とを結びつけるのは他でもない火だったと、火を以ってしてはじめて人は底から深く花と関係するのだと、とんどに燃える松やら竹やら、くさぐさの葉っぱを眺めて居た。」

尾道の北に位置する御調町綾目の山あいの、うちの集落では十三日にとんどがあり、その日に山から松やら竹やら伐り出して、その日に組み立て、その日のうちに燃やすという一連の流れの中で、私はひとり花屋のことを考えていた。これもひとつの、人と花との関係であるとたしかめるように吟味しながら。

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花屋とは、その名を「花屋つち」という、御調は綾目の山あいにおける自身のせいかつをその根柢とする花屋である。といって、店があるわけではない。どころか、それが果たして花屋なのかどうかさえ、私としても分からない。それでも花屋であろうとする訳は、人生を考えるということが、とりもなおさず花を考えることであるから。そうして、人と花との関係を考えるのに、花屋はうってつけの生業だと思ったから。ただし、ここで花とは植物全般のことである。野菜も花咲く植物である。


その名前である花屋つちの、つちとは土のことで、私はこの言葉に生活という意味をもたせている。人が生きていく花、そのせいかつの花をあきなう花屋の、根っこにはまず自身の生活があって然るべきで、これが無いうちは根無し草に過ぎず、根が無いからは早晩枯れる。そのようなものがいたるところ後を絶たないなかで、私は根をおろす土からつちかう花屋というものを、つまりは生活からつちかう花屋というものを、日々の生活に模索している。


そのような日々の、十三日にはとんどがあって、その火をものめずらしいと眺めながら、おもえば人間の生活は火をあやつることにはじまって、近ごろは火をいよいよいらないものとしてしまった。オール電化のような皆無を例に取らずとも、たとえば山あいに住みながらなお山に入らないひとはいまや珍しくなく、薪をつかわない生活がもはや普通であるなど、その傾向はいくらでも見てとれるだろう。そうして、火を無くしてみて、得たものを便利とすれば、失くしたものは他でもない人間たる生活そのものだったのではないだろうか。近ごろしきりに「植物のある暮らし」とうたわれる背景には、この人間と火との疎遠があると私は思う。普段から薪で火を熾すような生活から、「植物のある暮らし」などと可笑しい、滑稽なスローガンの出てくる筈がないだろう。

 

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失くしたものは、人間たる生活だけではなかった。かつてのように山へ入らなくなったせいで、山はいまや息絶えだえであるということが、昨今の土砂災害の頻発に見てとれる。ここで山を自然といいかえてみたとき、いま少しずつ読んでいるある本の、その冒頭と重なってくる。


「この本のなかで私は自然を交通概念をとおしてとらえようとしている。私たちが生きる世界には、自然と自然の交通、自然と人間の交通、人間と人間の交通という三つの交通が成立している。人間と人間の交通はときに経済的関係や社会的関係をつくりだしたりもするけれど、この三つの交通はそれぞれが単独で成立しているわけではなく、相互的に干渉し合っている。人間と人間の交通によってつくられたシステムが自然と人間の交通を変え、それによって自然と自然の交通も変わっていくように、である。」
"自然と人間の哲学 内山節 著"


これら三つの交通を考えることから、私はより十全に生きたいというこの単純な本能を、花屋として引き受けようとしている。花屋でなら、それを全うできると思っている。この里山におけるせいかつは、まさしく自然と人間との交通であり、これに深入りする日々を前提として、それをさらに他人へと、人類へとひらいていくときに、人間と人間の交通としての花屋が生じる。果たしてそれは自然と自然との交通にも作用する。



と、言うは易い。
それでも言わなければはじまらない。
だからこそ、ここに書いてみようと思った。
里山のせいかつは、ほんとうに寡黙だ。ほんとうにひとりで、在ることは、なんもいえねぇ。そんなことばかりだ。それで、ときには換気もひつようだろう。そう思って、作ってみた窓。