回復する人間

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元旦はいつも晴れる不思議に恵まれて、朝から四時間の散歩をしてきた。なるべく正月の空気にあてられないようさびしい道をばかりとおってゆくと時空のそこだけぽっかりとあいたような境に踏み入ることが何度かあった。正月はなにかと狂うのか、と風邪っぴきのからだをあやすように、いつものように植物の写真を撮って帰った。

ここ最近とくに思うことに、写真が撮れたと感じたときに都度、何かを取り戻したような感触を覚える。それが何を取り戻した感触なのか、その前に失われているものは何なのかもわからない。けれど写真には、確かにそれを感じる。

帰ってから晩のお雑煮用にあらかじめ水につけておいた干し椎茸の状態を確認し、少し横になってから、あたらしくはじめた手紙を書くという日課の合間にこれを書いている。手紙を日課にしようときめたのは、生活における手仕事を増やしたいと思ったからだった。なんでもiPhoneで書いてしまう僕は、なんでもなさそうな手書きにむしろ難を感じる。馴れない手をあやすようにじりじりと書くのを終えると、全身に疲れと充足を感じる。これではまるでリハビリではないか—— 否、むしろ自分は、リハビリをこそしたかったのかもしれない。だとすればそれは、何を克服するためのリハビリなのか。そもそもリハビリとは何なのか。

リハビリテーション(rehabilitation)とは、身体的、精神的、社会的に最も適した生活水準の達成を可能とすることによって、各人が自らの人生を変革していくことを目指し、且つ時間を限定した過程である。リハビリテーションの語源はラテン語で、re(再び)+ habilis(適した)、すなわち「再び適した状態になること」「本来あるべき状態への回復」などの意味を持つ。』 — Wikipediaより

これを読むと、その実際はどうであれ、どうも病気や障害を前提としたうえで何かを克服するというリハビリ観は狭いように感じてしまう。ここに書かれている「再び適した状態」「本来あるべき状態」とは何なのか。再び、本来、ともに過去を指向する言葉だが、その過去は自分の生涯の範囲内とも限らないのではないか。とすれば、リハビリとは何かを思い出すことなのかもしれない。手紙を書くときに感じるあの充足は、このからだが何かを思い出したことの懐かしさなのではないか。何かを覚えているから、記憶に無くてもなお懐かしい感覚が訪れる。このからだは何を覚えているのか。からだは何を今思い出したがっているのか。

それはおそらく、特別なことでは決してなく、かつては誰もがそうしてきたようなことなのではないか。誰もが生きるために食べ物をつくり、料理をし、食べてきたこと。誰もが人と言葉を交わすために手紙を書いたこと。本来はそうだった、それがあろうことか、今となっては特別となっていることにこのからだは戸惑っているのではないか。生きるということがあまりにも約められているせいで凝り固まっているのではないか。馴れない手が、それでも手紙を書きたいと思うのは、より生きたいからではないか。

「且つ時間を限定した過程」とあるが、からだは常に揺らいでいるからは、適した状態もその時々でうつろうだろう。そこへ回復するというのは、一時的な過程よりはむしろ、生きているかぎり終わらない過程なのではないか。そうして、からだが目ざすのはある生活水準ではなく生活行為そのものであり、生活であるからは生きているかぎり終わらない。その過程における人間は、皆して回復する人間なのではないか。