器用な人間

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元旦の翌日に月白へ行った。先月末にはじまった話す連載「月白にて」に来てくださったギャラリーのオーナーさんが見えているというので、仕事帰りに寄ったのだが、彼女はタッチの差で帰ってしまったという。和紅茶を注文して待っていたら、そのとき居合わせた方から" 先日の「月白にて」はどうだったんですか?" と尋ねられた。説明するのは難しいというと、月さんもそういって匙を投げたらしかった。無理もない、話しがおもしろいというときに念頭にあるのは、その筋ではなく、実際に話した言葉が次の言葉を呼びこむ流れにこそある。その感触が良かったと伝えた。

" そうそう、金継ぎに出してたうつわが届いて。"

昨年の十一月に日田を訪れたとき、鹿鳴庵の主人テツさんが相澤漆藝工房で金継ぎを習う様子を見学させてもらった。うつわはテツさんに預けていた月白の三つのお椀で、見学したときにはまだ乾かない漆の生しい赤いろをしていたのが、息をのむ金色になって帰ってきたのだった。近く、遠く、回して見たり、金の手ざわりをたしかめた。これは使う人にとって良い緊張をもたらすだろうな、という力が漲っていた。一度は壊れてしまったものが、金継ぎによって直るというのは、元に戻るということではけっしてなく、姿が変われば自ずから、物と人間との関わりようも変わるのではないか。

ちょうど、僕は物を使う人間について考えていたところだった。そうして、手紙を書くことが自分にとってある種のリハビリなのではないかと思いあたったことから、Wikipediaにあったリハビリについての文章の一部を前回の「回復する人間」に引用したのだが、その続きにさらに惹かれていたことを、うつわに触発されるようにして思い出したのだった。

『また、猿人と原人の中間に位置するホモ・ハビリス(homo habilis、「器用なヒト」)が、道具を使い、人間にふさわしいという意味でも用いられ、適応、有能、役立つ、生きるなどの意味も含有し、リハビリテーションの語源ともいわれている。』

現生人類へと繋がることなく絶滅したとされるものの、高度な石器製造技術を持っていたことからラテン語で「器用な人」と名づけられたホモ・ハビリスが、リハビリの語源にあるのだという。物を作り、物を使い、物を直して使い続けることによって生きてきた人間の在りよう、としての器用な人間。 

と、ここまで話が及んだとき、" これを思い出しました" と居合わせた方から、一冊の本を見せてもらった。「ありのままがあるところ」鹿児島の、知的障害や精神障害を抱えた人々の暮らす福祉施設・しょうぶ学園についての本だった。それは障害も病気も健常も超えたところにある健康について考えていた僕にとって、まさに今読むべき本に感じられた。目次をひらいて、" できないことができるようになるとは?"とまず飛び込んできた。これはまさにリハビリのことではないか?続いて、" 目標は普通の暮らし" " 縫うことは生きること" など、今の関心に訴えかけてくる言葉が並んでいた。彼女はジャケ買いをしたというが、僕としてはそのように本屋で手に取ることはきっとなかったであろう本が、今こうして「月白にて」の流れから手元にやってきた。それはとてもきもちのいい流れだった。

しかし、翌日さっそく読みはじめてみたのだが、どうも思っていたのとは違う内容であった。" できないことができるようになるとは?" という章で、施設の利用者が刺繍をまっすぐにできないことをできるようにするのは何のためになるのか、無理にまっすぐな刺繍をさせるより好きに刺繍してもらった方がいいのではないか、それこそがアートではないか、とこれまでの作業の在り方を問い直してから、健常者について次のように言う。

「まじめな健常者は普通、困難な課題を克服し、新しい技術を獲得し、能力が増していくことに喜びを覚える。つまり、できないことができるようになることが重要になる。そこまでして苦手なことを克服しようとするのはどうしてかというと、健常者には他人から評価されるようになるとか、そうしたことで充実感を得られる欲があるからだ。」

一方、施設の利用者には苦手を克服する理由が無いのだと続く、後者はそうなのかもしれない。だが、他人の評価による充実感云々という決めつけには反発を覚えずにいられなかった。それについては全く思いもよらなかった。立場の違いは当然あるものの、僕がこの本を手に取った経緯からはあまりにも外れた内容だった。否、自分こそが本から外れていたのだった。

どのように自分が外れていたのか。" できないことができるようになるとは?" という目次から僕が勝手に書きはじめていた別の本には、できないことはできなくていいという肯定とは別の肯定が書かれていた。金継ぎを例にとれば、物の直しなどできなくていいというのが、ここに書かれているできないことはできなくていいという在りようだとすれば、それはこれまでの僕の生活のまんま、そこで行き詰まって終わりである。そのような自分にとって、できないことができるようになることは、これまではやってこなかった本当はできるのにできないと思い込んでいたあらゆることや、別にしなくても生きられるからと他人の手や機械に預けられた日常生活動作の悉くを、しなくなったがゆえに死んでいるのと変わらないような死にたくなるような想定外が起きている悉くを、この手で取り戻していくというリハビリーhomo habils ーを生きることによって、底から回復する人間の姿をこそ肯定する営みなのだった。

できないことはできなくていい、それでも生きていていいという肯定は、彼の生きる張り合いや緊張を奪って骨抜きにしたうえで、なおそのような彼に、ゆっくりと自分のペースで歩けばいいのだという、かえって酷な肯定に今は思える。(彼は僕である、これは自分の話である。)そのような自分にとって器用な人間とは、本来は張り合いのある生を、張り合いのあるままに生きようとする人間のことで、何も手先が器用だとか世渡り上手とかいうことではない。むしろそのような意味でなら、僕はいかにも不器用である。そういうことではなく、お前は何がしたいのか?と何度も問われてきた、その度に、ただ生きたいのだと不器用に応えるほかは何もなかった、その内実は人間の生の必然的な雑多性をそのままに、自らの身体を以って経験し生きてきた、何者でもない普通の人間 ー 器用な人間として、ただ生きたいということだった。

homo habils. すでに絶滅したとされている人間。しかし耳を澄ませば、自分の身体にも、今は静かに息をしている器用な人間の、再起するリハビリとしての手仕事の数々を、生活のなかで少しずつ取り戻していくこと。それはまた僕にとって、文学と同様、健康の一つの企てともいえるだろう。