古傷の疼く(二)

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「前に話していたのはたしか、火の仕業?」

窯からギャラリーに戻って打ち合わせのはじめに、今展示のタイトルについて杜胡さんが郷原さんにそう確かめたとき、それはとても良いタイトルだと思った。火がうつわをうつわたらしめる仕業について、窯の構造の実際から具体的に聞いていたこととかさねて、郷原さんのうつわにかんじられる作家性が稀薄に思えたのは、土がうつわに成る過程の多くを火の神様に託す意思が、彼には人一倍あったからではないかと腑に落ちたから。

「ああ、火の洗礼。」

郷原さんの応えたとき、しかし僕は、あまりピンとこなかった。洗礼よりも仕業という手ざわりのある言葉のほうが、彼のつくるうつわには合っている気がした。

帰りの車中で、郷原さんのうつわをどのように届けたらよいかという話をしていたときにも、僕にはその違和感が拭えずにいた。「僕には自分が無いんです。」と話のなかで郷原さんは繰り返し言った。それは彼の永い修行時代——といってもそれは鞄持ちのようなもので、うつわを実際につくらせてはもらえなかった——において、"作らない"作家の影武者のようなこと、"自分を消して"物をつくることを永くやってきた末に身についた個性——無私性であるらしかった。そこへみて洗礼という言葉には、作家性が忽然にきわだってかんじられたのかもしれない。

「なんでもそれなりに作れる。自分が無いんです。けれど売れるのは、作家の個性が強いものだから。僕は究極、土を触っていられたらいい。」

思えば僕としても、作家物のうつわを買った経験は少ないが、なおさらそれは特別な購買体験として、うつわには個性を求める節があったかもしれない。Instagramでうつわを見るのが習い性となっているのも、個性の光るものばかりを見ているのであった。だから、といえばいいのか、僕は郷原さんのうつわの一つ一つに直接惹きつけられるよりも、彼のなんでも自分で作ってしまう在りようや、そうして生み出された空間全体の方にこそ惹きつけられたのかもしれない。むしろ、どのようにしてうつわそれ自体を見ればよいのか、僕の経験の浅さゆえか、陶房においてそれは不可能に思えた。

しかし、そのように自分から買うことをしなかったうつわが思いがけず、本を介して自分の手元に届くことになった。これは果たして、何が届いたことになるのか。うつわが、単にそれだけが届いたとはどうも思えなかった。陶房を離れた車中で、どのような展示をすればよいかと三人で話しあうなかであらためてうつわを見ながら、その奥に広がる陶房の光景や、郷原さんの在りようを見ずにはおれなかった。否、むしろ郷原さんのうつわの、これは特質なのかもしれない。彼の無私性による、うつわの孕む、余白……

そのとき、うつわを見ていた僕に、陶房へ辿り着くまでのことが思い出された。昼を過ぎてからでないと郷原さんの都合がつかないから、その前に小波——元は杜胡のあった近所のうどん屋で、昨年宗像に移転された——へ行こう、移転のお祝いにお酒も買って行こう、と寄った許山酒販には入り口が二つあり、一方は昔ながらの雰囲気を残した角打ちで、もう一方は現在の洗練された空気の流れる実に良い酒屋だった。そこでワインを選んでいると、「ワインや焼酎は、香りを楽しむ点で限りなくアロマテラピーに近いんです。特に最近は焼酎がおもしろい。」と店主の許山さんが言った。僕として馴染みの薄いワインと焼酎を、それぞれの香りからアロマテラピーに繋げて語るあざやかさに惹きつけられ、そういえば、ワインセラーの手前にあった洒落た瓶、あれも焼酎ですか?と聞くと、「そうです。よかったら隣で試飲しますか?」と朝から思いがけず、角打ちで焼酎をいただくことになった。

それは鹿児島にある白石酒造の「スズホックリ」という名—— 芋の一種で、酒造りの好きすぎるあまりに、芋から自分たちの手で作られていることからそう名付けられた——の芋焼酎で、ソーダ割りすると香りからおいしいとグラスに氷を掻き回して角を取り——これをすると、氷が溶けづらくなるのだという——スズホックリを注ぐ、冬の朝とは思えない氷のカラカラと鳴る音が心地よく、舌鼓を打つうらでは次々と別の焼酎が、ソーダで割られお湯で割られして、そのつどまずは香りをたのしんでから飲むことをした。これからが本番というのに朝から酒を飲んでいる背徳感がさらに酒をうまくするのか、しかし曇る酒ではない、むしろ冴える酒もあったものだとあじわいながら、次々と展開される許山さんの話を深々と聞いていた。

お酒はどうやって勉強されたんですか?と聞くと、「勉強自体は最近なんですが、元々絵が好きで、とくに僕はセザンヌが好きなんです。セザンヌの塗り残しってご存知ですか?」月さんが嬉しそうに頷くも、僕は知らなかった。それはなるべく現実に近付くことを主眼としていた絵画が、写真の登場を機に大きく揺らがされ、むしろ絵画にしかできない表現を目ざす方へと展開していく美術史において、先駆するように描かれたセザンヌの意図的な塗り残しであるらしかった。「それと酒を売ることは近いんです。僕らは生産者ではないので、その酒のすべてを伝えることはできないんですが、だからこそ、どの部分で伝えるかというところを常に意識しています。それはどんな仕事でも、そうなのかもしれませんが……」

その話に酔って、僕は福岡へ越してきてから間も無くしてあらためて見開かれる思いをした写真家・鬼海弘雄——月さんの最も敬愛する写真家で、月白には彼の写真集がいくつも飾られている——がとあるラジオで話していたことをふっと思い出したのだが、それは次のようなことだった。

「モノクロでないと写真じゃないですよ、カラーは情報ですよ、だって、モノクロだと、こっちからこれを見てくださいというのでなく、見てくれるひとが、隙間があるからそこに入って、自分とどこか似ている、という感じで読んでくれる。でないと写真はただの情報で、一回で見切られて終わりですよ。」

帰りの車中、どのように郷原さんのうつわを届けたらよいかと三人で話し合いながら、僕に届いたうつわにかんじた余白は、それがセザンヌほどに明らかな意図があったとも思えないが、なおも鬼海弘雄がこの時代にあえてカラーではなくモノクロを選んだようにして、郷原さんは土を——釉薬もかけないで、ただ土だけを使うということを——選んだところに生じたうつわの隙間だったのではないか。そうして、僕がそこに入って見たものは、さっきまで居たあの陶房の光景、それから郷原さんの在りよう—— それだけでなく、その奥に息づく人間の生きる姿、器用な人間—— それは私かもしれなかった。

しかしそれは、"自分とどこか似ている"のでもなかった。むしろ今の自分は、あまりにも不器用な人間である。にもかかわらず何かが疼く。否むしろ、不器用だからこそ疼くのかもしれない。このままではおれないと、人間として生まれてきたのにこの様は何だと。ならばそれは、自分にも覚えのない古傷——自分の生まれない前から続いてきた、人間として生まれてきた傷——の疼きなのかもしれない。それが日常生きるなかではひっそりとこの身に鎮んでいるのだが、何かの拍子に疼くときがある。たとえばこんな満月の日にはことさらかもしれない——町でも眩しいくらいの大きい月が、その日の夜空にはかかっていた——それを車窓に眺めて感嘆していると、「だから今日にしたんよ。」と運転席から杜胡さんが言った。「そういう験は担ぐようにしてるから。」

月白の近くに着いて車を降り、三人であらためて見あげた月は物凄かった。月を見るとき、人はみんな同じ目をしていた。打ち上げに月さん家で鍋をすることになって、そこまでの道すがら、月の光に照らされながら、御調の山あいに暮らした日々のなかでこのような月のいい日にだけ見られる月影を思い出していた。町に戻ってきた安堵のうらで、それは古傷の疼くように思い出された。