落ち葉掃き

f:id:odolishi:20191201121515j:image朝は散歩がいい。歩いているうちに今日一日が生成されてくる。これまでは寝床で考えていたがたいていうまくいかず、うまくいかないと鬱になって、ついに寝床から出られなくなることが多かった。だから先ずは無目的に散歩に出かける。と後は万事が転がりだす。今日はあれしてこれして、あとは手紙を書こう、という風に。

 
遅い散歩には道々に生活が滲みだすようで、きょうは落ち葉掃きをよく見かけた。せっせと掃く母親の傍らには背丈の倍程もある箒とくるくる踊る女の子。通り過ぎて角を曲がると、大変ねえ、この木の葉が終わるまでね、またね、と会話を交わすご婦人。このたわいもない光景が、妙に染みた。

 
思えば、所によっては落ち葉掃きを嫌うあまりに、庭木や街路樹の枝を切り落とす人々もある。大変、面倒なのは百も承知だが、彼等は忙しすぎるか、はたまた面倒の奥にある愉悦を知らないのだろう。落ち葉掃きを見ていれば、それを知っている人か知らない人か、手付きでわかる。あじわうように落ち葉を掃く人を偶に見かける。それはとても良い光景だ。時には鼻唄まじりに、箒と地面のこすれる音を刻んでビートとし、静かながら身の内では高鳴るように、掃除をしている人さえある。見ていてとても気持ちがいい。


鼻唄で思い出したが、今のラブソングの起こりは、いずれも労働手順の節を取る作業歌の派生であったと、鶴見俊輔の限界芸術論に読んだことがある。それはまた近代以前の労働の大部分が、歌をともなうことでたのしくすることのできる性質のものであったことも伝えるのだと。鼻唄はまた別で、たくさんの人が一緒に作業をする場で歌われる作業歌でもなく「ひとりが、作業しながらでも、しながらでなくとも、自分にむかってうたうものである。」

今ではいずれの歌もひっそりとして聞こえない、と思うと寂しい。限界芸術は、日々のふとした良い光景良い音楽の、今では枯れて久しい源泉だったろうか。僕は落ち葉掃きという仕事があるならば、それに就きたい。そのささやかな仕事によって庭木や街路樹は枝々をめいっぱい伸ばして憚られず、道も汚れず、面倒嫌いは好きな事に集中し、僕はひとり鼻唄まじりに、作業療法みたいな愉悦に浸る。そうして万事がうまく運び、それはとても良い光景だろう。と想像しながら帰途についた。

 

落ち葉掃きを心に留めつつ、マッサージの面接には「あなた、自由すぎる」という理由で落ちてしまったので、清掃員に応募した。ホテルの清掃員と、一般家庭の清掃員、9時10時に始まり、15時には終わるという日課みたいな仕事。しまいに僕は主夫になるのかもしれない。といっても独り身なので、主、になる。明日連絡が来るだろう。