他に仕方もない

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どうやら自分は、作業の中にいる時には鬱にならない。鬱になる時、それを感じる時、だいたい頭で何かを考えている。( 但し例外を除く) そのままどこまでも考えてしまうのだが、あまりいいことにはならない。それなら考えるのをやめたらいい、と考えるまでもない対処が、鬱の時にはなぜかできない。

だから鬱になる前に、あらかじめいくつもの作業を見つけておいて、思い立つより前に、自動的に入れるようにしておく、つまり日課としておけば、鬱になることはないという仮説のもとに暮らしはじめてひと月が経つ。そうして減った、あるいは来たとしても軽くなった。これは良い線なのだと思う。

これまでは気分の波が激しいのは自分の性格で、それはどうしようもないものだと思っていた。良い気分の時は本当に良く、下がる時はとことん下がる、他にどうしようもない、という仕方で生きてきた。けれど今は、気分に関わらず作業に入ることで、その気分になってゆくというのを覚えた。気分の波は作業の波なのかもしれない。

特に手作業が良い。それは単純で、感触があって、後退が無いからだ。先日、友人から届いたドゥルーズの『批評と臨床』にはこんなことが書いてあった。

「人はみずからの神経症を手立てにものを書くわけではない。神経症や精神病というのは、生の移行ではなく、プロセスが遮断され、妨げられ、塞がれてしまったときに人が陥る状態である。病いとはプロセスではなく、プロセスの停止なのだ。」

だからこそ、プロセスの停止( =鬱 )に、別のプロセス( =作業 )をあてがうことで、生の移行がまたはじまるということだろう。また別のプロセスは単純であるほうがよい。というのは、やればやるだけ進むようなプロセスが、さっきまでどうしようもなく停止していた思考のプロセスに新たな前進を促すということがよくあるからだ。現に今書いているこの文章も、一度詰まったので米を研ぎ、研ぐ間に前進したものを書き継いでいる。

「それゆえ、そのような存在としての作家は病人なのではなく、むしろ医者、自分自身と世界にとっての医者である。」

そのような医者として、単純作業を自分に処方し、鬱は解消され、言葉が生まれる。物が書けて、家事もはかどる。「文学とは一つの健康の企てである。」とは、僕にとってはそのような生活のことである。これは一生続けていきたいと思う。もとより物を書かなければこの身が続かず、家事をしなければ生活が回らないからは、他に仕方もないのだが、他に仕方もないことでこそ生きられるというのは、これはありがたい設定ではないか。

「人生ほど、生きる疲れを癒してくれるものはない。」ーウンベルト・サヴァ

 そのような詩的人生を、やっと見つけたのだと思う。ただ人生といってしまうとつい物語に目が眩んでしまう。そうではなく、これは良い一日の発見、そうして継続である。