健康の企て

f:id:odolishi:20191222171953j:imagePhotographer : Kuniaki Hiratsuka

月白には写真集がいくつかあって、いつでもひらいて見ることができる。中でも写真家・鬼海弘雄の作品が多く、僕は文庫本の写真集『世間のひと』ーやわらかく笑っているおばあちゃんの肖像が表紙の本ーが前から気になっていたから名前だけは知っていたが、彼こそが月さんにとって最も敬愛する写真家であるといつか聞いた時は、正直渋いなあと思ったのを覚えている。

それから時が経って、月白の徒歩圏内に越してからあらためてひらいてみた彼の代表作『PERSONA』ー浅草寺の境内の朱い壁を背景に、市井の人々の肖像を45年にも亘って撮り続けた作品ーに飲み込まれた僕は、あとがきに書かれている彼の写真についての考えに思いがけず自分のそれと重なるところを感じ、その深みにおいて揺さぶられるという経験をした。今も揺らいでいる。

それからは写真自体もそうだが、鬼海さんの言葉を読みたいと思うようになった。彼の写真には必ずキャプションがあり、普通それは補足的なものに留まるが、彼においてはそれこそが表現の核といえるまでになっている。そんな彼が自分の撮る写真の肖像についてあるインタビューでこう語っていたのだと、『東京ポートレイト』のあとがきに評者が引用していた「自分自身の他者」という言葉、前後の文脈は見えないのだが、この単純な言葉に打たれた。ちょうどその時、自分という言葉による他者との境界線、厳然としてある身体という輪郭線を、時に越えてしまう自分ということについて考えていたから。線はそのままに、染みだす自分、また染み込んでくる他者や物、世界について。

それは言いかえれば共感である。どうも共感という言葉が易きに流れてしまっているとは感じながら、なお人間の深いところに根ざしている、それ無しには人間が今日まで存続し得なかったであろう共感について。

それを考える端緒となったのは、ある日、これも月白にて、トークライブ「絵本的於月白」の時にも着ていた気にいりのシャツの襟元が破れてしまったのを、そのライブで出合った洋裁家のりみさんに繕いを教わって繕っていた自分の姿を見て、りみさん、月さんともに「見ているだけでいい、なんだか落ち着く。」と口を揃えて言ったこと。たしかにあの時、僕は普段になくやすらいでいた、物を自分の手で直すという過程に、自分もどこか癒されていくのを感じていた。ここまでは分かる。けれどそれを見ているだけでも同じような気持ちがするという時、それぞれの自分には何が起きているのか。それこそが、人間に自ずから備わっている共感の作用なのではないか。

そうして、今年に出た鬼海さんの対話集『ことばを写す』にも、そのような共感にまつわる一節があるそうだ、読んだ人曰く、「精神科の患者さんが鬼海氏の写真を見ると落ち着くとの記述があり、さもありなんと思う。」どうしてそのようなことが起こるのか。それは鬼海さんにとって、写真を撮ることが癒しとなっているからだと僕は思う。彼が癒しという言葉を使っているのを僕は知らないし、また共感とも似て、癒しという言葉も随分と易きに流れてしまっているから使うに難しいのだが、彼は写真を撮る時、被写体に自分を見るのだというーそれを見ないでただ単に他者を撮るのは、彼にとっては証明写真と変わらないのだというーその自分を見つけて、じっと見つめる時、彼は深く癒されてもいるのではないか。( 本でもそうだが、読みながらそこに自分を見る時がある、そのときに救われ、安堵し、やすらぐ自分が居はしないか。) そのようにして撮られた写真を見る時、鬼海さんが写真を撮る時の状態に共感してしまうということがあって不思議でない、さもありなんと思うのだ。

ここにおいて、微花が少しずつ病院へと届きつつある現状が重なってくる。詳しくは「絵本的、その後」に譲るとして、つい先日、作家の坂口恭平さんが代官山蔦屋書店でブックコンシェルジュを一日限定で行なった際に紹介されたジル・ドゥルーズの遺作「批評と臨床」が何となく気になり、Amazonを辿った、そこで見つけたある言葉を、以降も続いていくこの連載と、そうして一週間後に迫った「月白にて」の糸口として、ここに置いておこうと思う。

「文学とは錯乱/健康の一つの企てであり、その役割は来るべき民衆=人民を創造することなのだ」

それがどのような意味として書かれているのか、特に錯乱においては読んでいないのでわからない。けれど、健康の企てが文学であるということは、自分が微花をはじめていらいずっとやってきたことの本懐と重なる。それをこんなにも単純に言い切ってしまうドゥルーズに痺れた。

翌日、これと同じことを友人のそうしさんが呟いているのを見て、批評と臨床?ちょうど気になっていたと伝えると、「送ります!」とのこと。何がどうなっているのか、様々な声や本や思想が、ここしかないというタイミングでやってくるのが今の自分らしい。終わらない企てのはじまりである。

12.29(日) 18:00より

「月白にて」

月さんと、以上のようなお話をします。

年の瀬は、忘年するより健康の企てを。

参加希望の方はこちらから

コメントかDMを送ってください。

このブログでも大丈夫です。

 

作家薬籠中

f:id:odolishi:20191218073028j:image

Photographer : Keitaro Oguro

日課の掃除が続いている。朝の散歩から帰ってきたら、布団を畳んで押入れに仕舞い、物を端に寄せ、掃除機のスイッチを入れる、と自分も切り替わるのを感じながら、畳の目に沿って一枚一枚、我が家は六畳ゆえに六枚あることをあじわいながら、畳は傷みやすいから機体を気持ち浮かせながら、掃除機をかけていく。平日も休日も変わらない流れだ。

平日ならこの後、朝飯を軽く済ませて出掛けるところだが、休日の今日は、もうすこし掃除をしてもいい日だ、と思うと同時に、ここに思い違いのあったことに気付いた。つまり掃除はしてもいいもの、それは自由の喜びであって、しなければならないものではないということだ。
雑巾を濡らして、部屋のあらゆる平面を、普段は気にかけない紙代わりに硝子の張られた障子の格子の縁をひとつひとつ撫でこすりながら、ふと、硝子の模様をはじめて見た。越してから一月経ってなお一度も見なかったのは、それが飾るつもりのない模様で、陽に葉を透かしてはじめて見えてくる葉脈のようだった。


「僕は嬉しかった。物がとてもはっきりと見えたから。そうして、あんなに小さな物をとても大きく見ることができたから。ほとんど、あらゆる物、あらゆる場所と同じくらい大きく見ることができたから。」


と、小説『パパ・ユーアクレイジー』の一節が浮かんだ。日常生活動作から、ふいに何かを思い出すことの至福、そうして掃除に手を掛けるごとに、1K、六畳は無限に広がっていくように思われた。僕は嬉しかった。ここに居ながらにして、あたらしい空間をいくつも見つけることができたから。それは同時に懐かしくもあって、掃除が終わればいつものこの部屋なのだった。

 
掃除が終わった後の気持ち良さは、ほかの何物にも代えがたい。また掃除はそれ自体が気持ちの良い作業で、終われば達成感があり、綺麗になった空間は居るだけで心地良い。ただこの居心地は永遠には続かない。そうして、だからこそ何度でも渦中をあじわい、その度に居心地をあらたにあじわうことができる。いわば掃除は、僕にとって薬なのだと思う。病気だから薬がひつようなのではなく、病気だろうと何だろうと僕には健康が何よりで、それには日用の薬がひつようなのだ。掃除は最良の薬。これが無くなったらきついかもしれない。


先の引用はまた、「小石を見つめていることが、僕にいろんなことを考えさせた。」に続く一節であった。この小説では様々なかたちで、見つめることそれ自体がアートであり、アートが無ければ人類はとっくの昔に滅びていただろう、と作家である父親が十歳の息子に語りかける。僕はこの本を読んで小石やなんかを見つめるためのアート用のテーブルが欲しくなったが、そういうことでもなく、生活そのものがアートであり得るのだろう。ここでアートとは、Artの語源を遡ってArs、つまりTechneの翻訳語、簡潔に「人が生き延びるための技藝」のことだ。見つめること、掃除をすること、料理をすること、果たして生きることそれ自体を生き延びることへと繋げる技藝である。

 
またこの小説では、父親から息子へ、繰り返しこのように語られる。

「お前は作家だ。お前はいつだってお前の小説を書いているんだよ。」

その小説とは、物語の形をとった火なのだという。これを薬と読み変えれば、作家とはつまり、自分の生きられる薬を作る人のことになる。自分、ということの中にどれだけのものを含むかは作家によるだろう。そういう意味でなら、僕は作家でありたい。よりいっそう、作家でなければならない。

月白にて

f:id:odolishi:20191217225134j:imagePhotographer : Kuniaki Hiratsuka 

扉を開けるとカウンターにお客さんが居て、月さんが「今、冬が売れたよ。」とポチ袋にお金をつつんで渡してくれる。冬のプレゼントに選んでくれたそうだ。月白における微花の常設販売が始まってから、それはあいさつのような自然さでつど交わされるやりとりとなっている。

 月白とは、僕の家から歩いて数分の場所にある喫茶店のことで、その名は微花の創刊の核となった小説「感受体のおどり」の、鍵となる登場人物の名前から付けられた。自分の名前に飽いた所へ月白を見つけ、月白と呼ばれたいとそう名づけたそうだ。それで店主はお客さんから月さんとよく呼ばれている。

 名づけのきっかけもそうだが、微花が無ければ今のようなお店はしていなかったと思う、と月さんは言う。そんな僕は月白が無ければ福岡へ越してくる事は無かった、そのような移住から一月が経った。決め手は春の微花復刊に際して、足掛け全国十箇所を巡ったトークライブツアー「絵本的」の、会場はいずれも書店だった中で唯一の喫茶店が月白だった、そこでどの会場でもあじわうことのなかった感触 ー 自分が言葉を話しているというより、自分を通して言葉が湧いて流れてゆくような感触が気持ち良く、また聞き手の小さなうなずきや微かな挙動までもが、場所によってこうも変わるかと心地よく、話しながら住みたいと思い、同時にもう住んでいるような感覚で居たのだった。

 イベント後、瞬く間に相当数の微花が売り切れ、お客さんからはあの日の余韻が物凄いという声が届いている、僕もあれから何度も思い出している、と月さんからメールが届いた。思いがけないその声をうけてさらに確信したのは、あの時、これこそが自分の本当の仕事なのだと直感したことだった。それを今読んでいる本になぞらえて言えば、言葉をみがくこと、言葉のエラボレーション(elaboration=入念に作ること、労作)である。

  「しかもそれは、社会、世界に背を向けてただ言葉をみがくだけの、オタク的な生き方とはまったく違ったものです。社会、世界に自分をつきつけることで、内面に根ざす表現の言葉を現実的なものに鍛えることなのです。」

  大江健三郎の「シンク・トークとシンク・ライト」つまり「話して考える」と「書いて考える」という直球のタイトルなのだが、まさにあの時、僕らは自分達で作った本を持ち寄って、そのことによって書いて考えて来たことを、月白という場所で、話してさらに考えることをした。それが書いて考えるだけでは起こり得なかった言葉のエラボレーションを引き起こし、各会場ごとに違った感触をもたらしながらツアーは幕を閉じた。その成果は「絵本的、その後」に書いた。

 これを月白において、一回限りのことではなく、イベントが終わった後も継続する日々の習慣、いわば生きることの習慣として位置付けたいと僕は思った。どうして月白なのかといえば、ここはなにか、良い水場なのだ。言葉が湧いて流れてゆくような感触、と先に書いたが、言葉は水なのだ。流れもすれば、詰まったり、時に蒸発したりする中を人間は生きている、そのからだの70%は水だという、言葉もまた生きるのにどれほどひつようなものか知れない。そうであれば、生きることの習慣として、書いて考えるならひとりでもできるが ー それはまた意識するしないに関わらず皆やっていることだ ー さらに話す場を持つことは、ひとりではできない。ここでならそれができる、あの時思いがけず、そのような水路を開いたのではないか。

 移住から一月が経って、新しい仕事にも就き、出勤前に書くという日課が続いている。それを七十二候のリズムに乗せて、五日に一本のブログという形で連載を始めようと考えていたら、ちょうど今日から『鱖魚群(さけのうおむらがる)』と水の流れも良さそうなので、これを初回として連載を開始する。つまり書く日々があり、書き物がある、あとは話す場だ、時も来たと思って、先日、月さんに話してみた。それでは月一、月の晦方に、月白にて話す場を持ちましょう。二人で話す、これを「月白にて」と名づけて、生きることの習慣とする。

 

月白にて

日時: 2019年12月29日18:00〜20:00

会費:1000円(ワンドリンク付き)

会場:珈琲月白

 初回は以前の「絵本的」の流れも踏まえつつ、その後のこと、生きることの習慣について話す予定です。そうして以後、日どりの他は完全未定。それがいいと思う。説明不要、ただ「月白にて」とこの一言で、人が集まり言葉を交わす水場となればいい。

落ち葉掃き

f:id:odolishi:20191201121515j:image朝は散歩がいい。歩いているうちに今日一日が生成されてくる。これまでは寝床で考えていたがたいていうまくいかず、うまくいかないと鬱になって、ついに寝床から出られなくなることが多かった。だから先ずは無目的に散歩に出かける。と後は万事が転がりだす。今日はあれしてこれして、あとは手紙を書こう、という風に。

 
遅い散歩には道々に生活が滲みだすようで、きょうは落ち葉掃きをよく見かけた。せっせと掃く母親の傍らには背丈の倍程もある箒とくるくる踊る女の子。通り過ぎて角を曲がると、大変ねえ、この木の葉が終わるまでね、またね、と会話を交わすご婦人。このたわいもない光景が、妙に染みた。

 
思えば、所によっては落ち葉掃きを嫌うあまりに、庭木や街路樹の枝を切り落とす人々もある。大変、面倒なのは百も承知だが、彼等は忙しすぎるか、はたまた面倒の奥にある愉悦を知らないのだろう。落ち葉掃きを見ていれば、それを知っている人か知らない人か、手付きでわかる。あじわうように落ち葉を掃く人を偶に見かける。それはとても良い光景だ。時には鼻唄まじりに、箒と地面のこすれる音を刻んでビートとし、静かながら身の内では高鳴るように、掃除をしている人さえある。見ていてとても気持ちがいい。


鼻唄で思い出したが、今のラブソングの起こりは、いずれも労働手順の節を取る作業歌の派生であったと、鶴見俊輔の限界芸術論に読んだことがある。それはまた近代以前の労働の大部分が、歌をともなうことでたのしくすることのできる性質のものであったことも伝えるのだと。鼻唄はまた別で、たくさんの人が一緒に作業をする場で歌われる作業歌でもなく「ひとりが、作業しながらでも、しながらでなくとも、自分にむかってうたうものである。」

今ではいずれの歌もひっそりとして聞こえない、と思うと寂しい。限界芸術は、日々のふとした良い光景良い音楽の、今では枯れて久しい源泉だったろうか。僕は落ち葉掃きという仕事があるならば、それに就きたい。そのささやかな仕事によって庭木や街路樹は枝々をめいっぱい伸ばして憚られず、道も汚れず、面倒嫌いは好きな事に集中し、僕はひとり鼻唄まじりに、作業療法みたいな愉悦に浸る。そうして万事がうまく運び、それはとても良い光景だろう。と想像しながら帰途についた。

 

落ち葉掃きを心に留めつつ、マッサージの面接には「あなた、自由すぎる」という理由で落ちてしまったので、清掃員に応募した。ホテルの清掃員と、一般家庭の清掃員、9時10時に始まり、15時には終わるという日課みたいな仕事。しまいに僕は主夫になるのかもしれない。といっても独り身なので、主、になる。明日連絡が来るだろう。

最後の人間

時折やってくる何にも興味が出ない誰とも会いたくない平穏ながら苦しい時期がようやく明けてきたとき、発見が相次ぐ。それらは次々と押し寄せてきては、互いに繋がってやまない。その渦中は苦しいだけの平穏だが、抜けるとここへ出る。今までもそうだった。東京へ来て二ヶ月、そのほとんどがこの魔と重なってしまって、はじめは行くつもりにしていた場所も、会うつもりにしていた人達も、ついに見ないままに大阪へ戻ってきた。福岡に、かねてから探していた家が見つかったのだ。今週末にはここも発つ。

f:id:odolishi:20191104231718j:image

 発見、といっても世間にはあまりに古く、自分としてもそれと気づかずに思っていたようなことを、様々なきっかけから、あらためて思い出すことになった。

火について。

思えばこのブログでも、初めにとんどのことを書いていた。それ以来ずっと燻っていたようなところへ、先月、奈良の大宇陀へ赴き、東さん主催の「ひだぎゅう祭り」に参加した。枝豆だけを肴に酒を飲むお祭りである。軒先きに火を焚いて、そこに彼の棚田の畦から採れたての枝豆を茹でては卓へ、茹でては酒とともに胃の腑へ流し込む秋の祝祭の、火元にずっと居た。こんな日でもなければ枝豆を大量に食べることは到底かなわない、お金をつぎ込めばいいわけでもなく、採れたてを洗わずに焚き火で茹でる熱々をほうばるのだからいちばん美味い。こんなにも美味しい枝豆を食べたのは初めてだった。

それでも僕は、そのような初めての経験よりも、ただ火元に居たあの時間に何より満たされていた。向こうの卓では東さんや、僕の知らない人達が賑やかであった。枝豆を茹でて彼らに補給するのが一応の役目だったが、そんな事も忘れて火元に居た。隣にはそうしさん、磯田さんが居て、彼らも祭りの本懐よりも火に惹きつけられて居る風だった。色んな事をそこで話したがほとんど覚えていない。やっぱり火やな、と言い合った事だけ覚えている。何を燻っていたのだろう、これでよかったのだ、と何だか腑抜けのように火元に居た。


祝祭の明後日に、僕は福岡へ行った。家を探すために。そうして、高島野十郎の絵を観るために。野十郎といえば、蝋燭の絵が有名である。展示を観るだけでも幅の広い創作をしていたことのわかる彼は、その様々な創作群を描いていく中でずっと、執拗に蝋燭の絵を、構図のさして変わらない、卓の上に燃える蝋燭の絵を何枚も何枚も描き継いだ。前回の展示では空間を暗くした壁際に、ずらっと一列蝋燭の絵を並べた展示がなされたそうで、暗くされた空間の、本当にそこだけ明るかったのだと月白さんが言っていた。残念ながら、聞いて期待したのとは著しく外れた今展示の構成であったけれど、それでもたしかに彼の描く蝋燭に燃える火は、絵であるにも関わらず、不思議と明るかった。それにもまして不思議なのは、野十郎が何枚も何枚も蝋燭の絵を描いていた事、火を灯した蝋燭に相対し、描く、その時間のことだった。火元の存在、今は不在の人間について思わずにはいられなかった。


秋は、火を考えるのにうってつけの季節だ。それは日が早く暗いばかりに、また日ごとに寒くなってゆく時節ということもあるが、秋といえば、その字は禾へんにつくりは火だ。

十月の終わり、季節といなり豆椿で行われた書道家・華雪さんのワークショップ" 秋の実り "に参加した。そこでは秋の字の成り立ちを繙き、その上で秋の字を墨で書く、という事をしたのだが、現在使われている秋とは、そもそも龝(しゅう)という、稲をあらわす禾と、いなごなどの虫をあらわす龜に、火を組み合わせたのがその原型で、それは秋に、いなごなどの大発生によって穀物が被害を受けるのを防ぐために、虫を火で焼いて豊作を祈る儀式の意であった。転じて龝はみのりを意味するようになり、後には虫が省かれ、火は残り、今の秋の字になったという。つまり、秋にはそもそも四季をあらわす意味は無かったのである。他の字も同様に、いつからか四季をあらわすようになったらしい。それというのも、四季という概念そのものが、七十二侯、二十四節気を大雑把に四つに捉えなおした新しい腑分けであって、春夏秋冬は様々な理由からその新しい腑分けにあてがわれた字であり、それまでは四季そのものが無かったのだ。

そうして次第に省かれ大掴みになってゆくあれこれ、と思わずにはいられなかった。今ではもはや、秋そのものが失われつつあるかのような気配さえないか。実際、気候事実としては年々そうであるらしく、また暑い寒いと気温ばかりを季節と思いなす感覚にはよりいっそうのことかも知れない。龝から虫が省かれるどころの話ではない。秋のかそけさ。火もまた然り、と僕は思うのである。


そんな折、本屋で偶然見つけた2000年11月号の「母の友」の" 暮らしの中の明かりと暗がり " 特集。その中の文章にハッとした。

 『人間が用いた一番古い明かりは、雑木や草の根を集めて燃やした焚き火だろうといわれています。以来、「最後の燃焼性光源」と呼ばれるガス灯まで、人は" 燃やす "ことを様々に工夫してきました。暗やみにともされた火の明るさを思い出す必要はないでしょうか。』

 「最後の燃焼性光源」これがどうにも、「最後の人間」と読めてしまって仕方が無かった。この言葉は昨年六月、blackbird booksで行なわれた「つち式」刊行記念トークの場で、東さんを指して使った言葉だ。彼の家の軒先きの焚き火、その一番古い明かりにふっと連れ戻される。

最後の人間、それは昨年、坂口恭平が書き終えれなかった小説のタイトルでもあるらしい。彼がどのような意図でこの言葉をタイトルに据えたのかは分からないが、なんとも惹きつけられる言葉だ。

 
火を考える。といったって何のことはなく、それは既に幾多の人々が考えてきたことであり、もっといえば、かつては誰もがそう生きてきたようなことだ。ただそのような事を僕としても、現に生きてみたいと思っている。現に、というのが肝要だ。利便主義からは懐古主義と笑われるかもしれないが、結構だ。あらゆる潮流ながれの中で、自分の気持のよさに棹さして生きる、それで果たしてどこへ流れ着くやら、僕は知りたいと思っている。

 
焚いている人が 燃えている火   とか。

 

とんど

f:id:odolishi:20180117192131j:image

 

 「花屋であるところに火を見ることは稀だろう。どころか火気なら厳禁だろう。ところが、人と花とを結びつけるのは他でもない火だったと、火を以ってしてはじめて人は底から深く花と関係するのだと、とんどに燃える松やら竹やら、くさぐさの葉っぱを眺めて居た。」

尾道の北に位置する御調町綾目の山あいの、うちの集落では十三日にとんどがあり、その日に山から松やら竹やら伐り出して、その日に組み立て、その日のうちに燃やすという一連の流れの中で、私はひとり花屋のことを考えていた。これもひとつの、人と花との関係であるとたしかめるように吟味しながら。

 f:id:odolishi:20180117194656j:image

花屋とは、その名を「花屋つち」という、御調は綾目の山あいにおける自身のせいかつをその根柢とする花屋である。といって、店があるわけではない。どころか、それが果たして花屋なのかどうかさえ、私としても分からない。それでも花屋であろうとする訳は、人生を考えるということが、とりもなおさず花を考えることであるから。そうして、人と花との関係を考えるのに、花屋はうってつけの生業だと思ったから。ただし、ここで花とは植物全般のことである。野菜も花咲く植物である。


その名前である花屋つちの、つちとは土のことで、私はこの言葉に生活という意味をもたせている。人が生きていく花、そのせいかつの花をあきなう花屋の、根っこにはまず自身の生活があって然るべきで、これが無いうちは根無し草に過ぎず、根が無いからは早晩枯れる。そのようなものがいたるところ後を絶たないなかで、私は根をおろす土からつちかう花屋というものを、つまりは生活からつちかう花屋というものを、日々の生活に模索している。


そのような日々の、十三日にはとんどがあって、その火をものめずらしいと眺めながら、おもえば人間の生活は火をあやつることにはじまって、近ごろは火をいよいよいらないものとしてしまった。オール電化のような皆無を例に取らずとも、たとえば山あいに住みながらなお山に入らないひとはいまや珍しくなく、薪をつかわない生活がもはや普通であるなど、その傾向はいくらでも見てとれるだろう。そうして、火を無くしてみて、得たものを便利とすれば、失くしたものは他でもない人間たる生活そのものだったのではないだろうか。近ごろしきりに「植物のある暮らし」とうたわれる背景には、この人間と火との疎遠があると私は思う。普段から薪で火を熾すような生活から、「植物のある暮らし」などと可笑しい、滑稽なスローガンの出てくる筈がないだろう。

 

f:id:odolishi:20180117191639j:image


失くしたものは、人間たる生活だけではなかった。かつてのように山へ入らなくなったせいで、山はいまや息絶えだえであるということが、昨今の土砂災害の頻発に見てとれる。ここで山を自然といいかえてみたとき、いま少しずつ読んでいるある本の、その冒頭と重なってくる。


「この本のなかで私は自然を交通概念をとおしてとらえようとしている。私たちが生きる世界には、自然と自然の交通、自然と人間の交通、人間と人間の交通という三つの交通が成立している。人間と人間の交通はときに経済的関係や社会的関係をつくりだしたりもするけれど、この三つの交通はそれぞれが単独で成立しているわけではなく、相互的に干渉し合っている。人間と人間の交通によってつくられたシステムが自然と人間の交通を変え、それによって自然と自然の交通も変わっていくように、である。」
"自然と人間の哲学 内山節 著"


これら三つの交通を考えることから、私はより十全に生きたいというこの単純な本能を、花屋として引き受けようとしている。花屋でなら、それを全うできると思っている。この里山におけるせいかつは、まさしく自然と人間との交通であり、これに深入りする日々を前提として、それをさらに他人へと、人類へとひらいていくときに、人間と人間の交通としての花屋が生じる。果たしてそれは自然と自然との交通にも作用する。



と、言うは易い。
それでも言わなければはじまらない。
だからこそ、ここに書いてみようと思った。
里山のせいかつは、ほんとうに寡黙だ。ほんとうにひとりで、在ることは、なんもいえねぇ。そんなことばかりだ。それで、ときには換気もひつようだろう。そう思って、作ってみた窓。