作家薬籠中

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Photographer : Keitaro Oguro

日課の掃除が続いている。朝の散歩から帰ってきたら、布団を畳んで押入れに仕舞い、物を端に寄せ、掃除機のスイッチを入れる、と自分も切り替わるのを感じながら、畳の目に沿って一枚一枚、我が家は六畳ゆえに六枚あることをあじわいながら、畳は傷みやすいから機体を気持ち浮かせながら、掃除機をかけていく。平日も休日も変わらない流れだ。

平日ならこの後、朝飯を軽く済ませて出掛けるところだが、休日の今日は、もうすこし掃除をしてもいい日だ、と思うと同時に、ここに思い違いのあったことに気付いた。つまり掃除はしてもいいもの、それは自由の喜びであって、しなければならないものではないということだ。
雑巾を濡らして、部屋のあらゆる平面を、普段は気にかけない紙代わりに硝子の張られた障子の格子の縁をひとつひとつ撫でこすりながら、ふと、硝子の模様をはじめて見た。越してから一月経ってなお一度も見なかったのは、それが飾るつもりのない模様で、陽に葉を透かしてはじめて見えてくる葉脈のようだった。


「僕は嬉しかった。物がとてもはっきりと見えたから。そうして、あんなに小さな物をとても大きく見ることができたから。ほとんど、あらゆる物、あらゆる場所と同じくらい大きく見ることができたから。」


と、小説『パパ・ユーアクレイジー』の一節が浮かんだ。日常生活動作から、ふいに何かを思い出すことの至福、そうして掃除に手を掛けるごとに、1K、六畳は無限に広がっていくように思われた。僕は嬉しかった。ここに居ながらにして、あたらしい空間をいくつも見つけることができたから。それは同時に懐かしくもあって、掃除が終わればいつものこの部屋なのだった。

 
掃除が終わった後の気持ち良さは、ほかの何物にも代えがたい。また掃除はそれ自体が気持ちの良い作業で、終われば達成感があり、綺麗になった空間は居るだけで心地良い。ただこの居心地は永遠には続かない。そうして、だからこそ何度でも渦中をあじわい、その度に居心地をあらたにあじわうことができる。いわば掃除は、僕にとって薬なのだと思う。病気だから薬がひつようなのではなく、病気だろうと何だろうと僕には健康が何よりで、それには日用の薬がひつようなのだ。掃除は最良の薬。これが無くなったらきついかもしれない。


先の引用はまた、「小石を見つめていることが、僕にいろんなことを考えさせた。」に続く一節であった。この小説では様々なかたちで、見つめることそれ自体がアートであり、アートが無ければ人類はとっくの昔に滅びていただろう、と作家である父親が十歳の息子に語りかける。僕はこの本を読んで小石やなんかを見つめるためのアート用のテーブルが欲しくなったが、そういうことでもなく、生活そのものがアートであり得るのだろう。ここでアートとは、Artの語源を遡ってArs、つまりTechneの翻訳語、簡潔に「人が生き延びるための技藝」のことだ。見つめること、掃除をすること、料理をすること、果たして生きることそれ自体を生き延びることへと繋げる技藝である。

 
またこの小説では、父親から息子へ、繰り返しこのように語られる。

「お前は作家だ。お前はいつだってお前の小説を書いているんだよ。」

その小説とは、物語の形をとった火なのだという。これを薬と読み変えれば、作家とはつまり、自分の生きられる薬を作る人のことになる。自分、ということの中にどれだけのものを含むかは作家によるだろう。そういう意味でなら、僕は作家でありたい。よりいっそう、作家でなければならない。